ロス・マクドナルド:『さむけ』(早川書房) [book]
驚いたことに、いや、呆れたことにロス・マクドナルドの小説を初めて読んだ。もちろん名前なら30年以上前から見聞きしていたのに、どうしてこの年齢にいたるまで読まなかったのか。一言で言ってしまえば辛気臭そうだったからだ。
その印象自体は間違っていなかった。たとえば中高生の時分に本書を読んでいたとしても、読了する意欲が沸かなかったのでは、という気がする。一定程度の年齢にならなければわからない小説というものはあるのだ。
新婚旅行の第一日目に新妻のドリーは失踪した。夫に同情し彼女の行方を探すこととなったアーチャーは、失踪の背後に彼女の過去の影が尾を引いているとにらんだ。数日後、彼は手掛りをつかめぬまま夫の家を訪れた。と、そこには血にまみれ、狂乱するドリーの姿が……! 新境地をひらく巨匠畢生の大作。
のっけから余談だが、上記の梗概は出版社のサイトから引っ張ってきたものだが、実は正確ではない。「数日後」とあるが、当方が読んだ限りではリュウ・アーチャーが依頼人の青年と会った当日の夜のこと。そして、「夫の家」とあるが、これも正確ではない。この梗概はおそらく30年来変わっていない。もう訂正しようがないのだろうか。それとも誰も気づいていないのだろうか。
閑話休題。ロス・マクの小説は、濃密な文体で細部描写がこれでもか、と続くようなイメージを持っていたのだが、さにあらず。基本的にはアーチャーが関係者に徹底して質問をしそれを聞くという、会話が主体の小説だということ。だから、存外に読み進めるスピードが速かったのは意外だった。
プロットは、ハードボイルドの王道である失踪人探し。乱暴に言ってしまうと、〔失踪人探しの依頼を受ける→関係者をあたりヒアリングする→失踪人の肖像が浮かび上がる→併せて、関係者相互と失踪人の関連が浮かび上がる〕という図式。その時代・社会の暗部を描き出すために便利な様式なのだろう。
本書が本国で発表されたのは1963年。当方は生まれていなかったのでどんな年だったのかを確認したら、あのダラスでのケネディ暗殺事件が起こった年だ。その前の年はキューバ危機があったり、と、ある意味ではいま以上に不安な社会情勢だったのかもしれない。
そんな時代背景は、やはり本書に深く影を落としている。終始、不協和音が流れているかのように、読書は不安感を感じさせられる。唯一、安定しているのが主人公のアーチャーのみ。彼を道案内に、われわれ読者はロス・マクの描く架空の街"パシフィックポイント"の霧の中をさまようことになるのだ。
読了して感じたのは、もちろん正統派ハードボイルドという括りではあるのだが、極端に言ってしまうとホラー小説としても読めてしまったということ。こんなこというと怒られるかもしれないが。それほど、不安感というか不安定感のある小説だったのだ。
文庫版は1976年の初版から30年23刷という驚異のロングセラー。売れ続けるのにはわけがある。そのわけを知りたかったら読んでみるにしくはない。ただし、タイトルが指し示すように、読み終わってからカタルシスが得られる小説ではないので、そのあたりは覚悟しておこう。