ドン・ウィンズロウ:『サトリ<上・下>』(早川書房) [book]
かつてコードウェイナー・スミスをSF界の「ワン・アンド・オンリー」の作家と評した人がいた。当方にとっては本書の原典となる『シブミ』を書いたトレヴェニアンもエンタテイメント本におけるワン・アンド・オンリーの作家といいたい。
なぜそんなことを思ったかといえば、世代は違うんだけど、双方とも覆面作家であったことや、その最終的な職業が大学の教師であったこと。そして、スミスで言えば「人類」、トレヴェニアンで言えば「国家」という存在を冷徹なまでに相対化している観点が共通している。それぞれのジャンルについて、これほど「知的」な作家はめずらしいと思うのだ。
さて、お読みになった方はご存知だろうが、実はその『シブミ』は妙ちきりんな小説で、一般的には冒険小説というジャンルに属するんだろうけど、少年時代に日本で過ごした主人公のニコライ・ヘルの物語が続いたかと思うと、その後は洞窟冒険譚になったりして一向に本題に入らない。
また、全体に流れるアメリカホラ話風ユーモアがすばらしい。たとえば、ニコライ・ヘルは写真に写りにくいとか、武器を一切使わない<裸-殺>という暗殺技術に関する著者のすっとぼけた説明、そして最後に姿を現す敵方の巨大組織の首魁の正体など、なんだか妙に笑えるものがあるのだ。そして実は、トレヴェニアンにとってそのユーモアは「国家」とか「組織」に対しての皮肉であり武器だったのだと思う。
本書は、その『シブミ』の前日譚で、主人公ニコライ・ヘルの若き日を描いたもの。読了して原典との最大の違いとして感じたのは、そのすっとぼけたユーモアが欠けていることだ。言い換えると、「国家」という存在に対する観点がトレヴェニアンとウィンズロウでは違うということだ。その観点がが異なる以上、残念ながら『シブミ』と本書は分けて考えなければならない。
ということを除けば、本書はエンタテインメントとして非常に優れている。特に80年代冒険小説を好んで読んだ層には懐かしさが感じられるに違いない。短い章立てで登場人物たちの視点を変えるスピーディーな構成や、冒険スパイ小説の典型といえるようなストーリーなど、読み物としての愉しさは十分にあり読んで損はない。
繰り返しになるが、『シブミ』の雰囲気を求めるとこれじゃない感があるので古くからのトレヴェニアン・ファンは用心すべき。あと、版権価格の絡みだろうが、この文字数で本体価格1,600円の上下巻は残念ながらコストパフォーマンスは低いといわざるを得ない。
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